佐渡おけさは佐渡島を代表する民謡であり、鉱山労働歌から発展した哀調ある旋律が特徴です。地元以外でも盆踊りや民謡大会で歌われる機会が多く、幅広い親しみを集めています。
古くは九州・天草のハイヤ節に始まり、大正時代に相川で佐渡おけさと名付けられて全国に広まりました。
本記事では、佐渡おけさの誕生から近年までの歴史を詳しく解説し、現代の保存活動や復興の動きに触れつつ、その魅力に迫ります。
目次
佐渡おけさの歴史と起源
佐渡おけさは全国に知られる郷土民謡ですが、その起源には諸説があります。大きなルーツとしては、九州・天草地方の漁歌である「ハイヤ節」が挙げられています。ハイヤ節は熊本県天草の漁師たちが、南風(はえ)が吹いて漁に出られないときに船宿や座敷で歌っていた民謡です。江戸時代後期になると、そのハイヤ節は北上して各地を伝播し、風波待ちをしていた漁師たちにより全国に広がりました。
やがて北前船の航路に乗ってハイヤ節の旋律は関西・北陸・越後(新潟)へと運ばれ、最終的に佐渡島にも伝わりました。その過程で、佐渡島独特の情緒が加わり、現在の哀愁を帯びた佐渡おけさの原型が形成されたといわれています。
九州牛深のハイヤ節が源流
佐渡おけさのルーツは熊本県天草地方の漁歌「ハイヤ節」にあると伝えられています。南風が吹くと海が荒れ、漁に出られない漁師たちが待ち時間に漁港や旅籠で歌っていたハイヤ節は、南蛮系のリズムが特徴的でした。江戸時代にはその旋律が漁師たちの手で次々と全国の港町に伝わっていきました。
北前船で江戸時代に佐渡へ
江戸時代後期、北前船などの海運ルートを通じてハイヤ節は佐渡にも到達しました。東北や北陸の港町を経由しながら、佐渡島の鉱山労働歌に取り入れられる形で変化していきます。佐渡では鉱山で働く男性たちがこの歌を郷愁を込めて歌い、やがて島自体の風土に合った佐渡おけさが生まれたと考えられています。
相川・村田文三らの大衆化
大正時代に入ると、佐渡では相川町を中心におけさが盛んになります。地元の民謡団体などが積極的に演奏し、「佐渡おけさ」という名称でコンテストに出場するなど普及に努めました。特に佐渡鉱山の鉱夫であった村田文三は、全国各地の民謡大会やラジオ番組で佐渡おけさを披露し、多くのレコードを残して人気を博しました。こうした活動によって、佐渡おけさは全国に知られる民謡となりました。
佐渡三大民謡としての地位
現在、佐渡では佐渡おけさ、相川音頭、両津甚句が「佐渡三大民謡」として知られています。佐渡おけさはこの三大民謡のひとつに数えられ、地元の人々に深く愛されています。これらの民謡は交通手段の乏しかった時代から島民の心を支え、祝い事や祭りごとなどでも広く歌い継がれてきました。
佐渡おけさの文化的意義と背景

佐渡おけさは島の人々の生活や自然環境を反映した民謡です。その歌詞や踊りには佐渡ならではの情景や心情が込められており、地域文化に深く根付いています。以降で、佐渡おけさがいかに地域に愛されてきたかを見ていきます。
佐渡三大民謡の一つ
佐渡島で昔から愛されてきた代表的な民謡には、次の三曲があります。
- 佐渡おけさ
- 相川音頭
- 両津甚句
これらは佐渡三大民謡と呼ばれ、島の伝統芸能を代表する存在です。どの民謡も祭りや地域行事で欠かせないものであり、佐渡島民の結束や郷土愛を象徴しています。佐渡おけさもまた、この三大民謡の一角として、花火大会や盆踊りなどの祭りでしばしば歌われ、世代を超えて親しまれてきました。
佐渡の自然や暮らしを歌う詩
佐渡おけさの歌詞には、佐渡島の自然や暮らしが色濃く表現されています。たとえば、囃子言葉の「ハーアリャサ」の部分から始まり、「佐渡へ佐渡へと草木もなびくよ」「佐渡は居よいか住みよいか」といったフレーズで、佐渡の風景や島民への想いを歌い上げます。雪深い冬景色や島の豊かな風土疎らに映し出される詩情は、聴く人々に郷愁と親しみを抱かせます。こうした歌詞があることも、佐渡おけさが地域に愛される理由のひとつです。
祭りや盆踊りでの役割
佐渡おけさは夏祭りや盆踊りの場でも重要な役割を果たしてきました。佐渡島では夏祭りの夜に大勢が輪になって佐渡おけさを踊る風景が古くから見られました。地域ごとの盆踊り大会や芸能祭では、地元の子どもからお年寄りまでが輪踊りに加わり、佐渡おけさの歌声と踊りで島の夜を盛り上げてきました。こうした祭りでの披露により、佐渡おけさは人々の心に残るものとなり、郷土芸能としての地位を確立しています。
歌詞と踊りの特徴

佐渡おけさには他の盆踊りや民謡とは異なる特徴的な踊り方と雰囲気があります。ここではその振付や歌詞の内容について解説します。
十六足の踊りと振付
佐渡おけさの踊りは「十六足(じゅうろくあし)」と呼ばれる特徴があります。踊り手は扇子や小道具を手に、歌の節回しに合わせて「一つでホイ、二つでホイ…十六で下ろして」と足のステップを1から16まで数えながら舞います。16足のひと巡りが終わると元のステップに戻り、また同じように繰り返されます。ゆったりとした曲調に乗って足をゆっくり上げ下げする振付は、まるで波のようなリズム感と優雅さが特徴です。踊りの序盤が三味線の間奏に重なるころには、踊り手は足の数え方に慣れ、リズムに身を任せて舞うようになります。
歌詞の内容とこめられた情感
歌詞は二番構成になっており、島の情景や人情を伝える内容です。冒頭の「佐渡へ 佐渡へと 草木もなびくよ」という句では、故郷佐渡への想いが表現されます。また「佐渡は居よいか 住みよいか」というやり取りには、遠くにいる人が佐渡の暮らしを気遣う心情が込められています。さらに「新潟吹雪に暮れて 佐渡は寝たかよ 灯が見えぬ」といったフレーズでは厳しい冬の景色が描かれ、島民の姿が哀愁を伴って浮かび上がります。これらの歌詞は聴く者の心に染み入り、郷土への愛着と切ない情感を共有させる役割を果たしています。
踊りの道具と衣装の特徴
佐渡おけさを踊る際は、通常、扇子(せんす)を手に持ちます。踊り手は扇子を優雅に開閉しながら舞うことで、振付に華やかさとリズムのアクセントを加えます。衣装は浴衣や着物姿が多く、女性の踊り手は紅白の兵児帯(へこおび)や帯飾りをつけることもあります。また、帽子代わりに被る提灯傘や笠を使う流派もあります。これらの道具や衣装は視覚的な見どころとなり、踊りに華やかな雰囲気を与えています。
現代の佐渡おけさと地域活性化
現代においても、佐渡おけさは地域活性化の重要な要素とされています。一方で生活様式の変化により踊り手や演奏者が減少し、かつてのような日常的な風景は少なくなりました。これを受けて地元や観光関係者は保存・継承活動に力を入れ、祭りや観光イベントで取り上げるなど新たな取り組みを始めています。
観光イベントでの佐渡おけさ
佐渡島の観光イベントや宿泊施設では、佐渡おけさを活用した企画がたびたび行われます。かつては昭和40~50年代に民謡ショーとして旅館の夕食時に披露されることもありましたが、現在それらは減少傾向にあります。しかし近年は観光交流拠点や温泉旅館で毎晩のおもてなしイベントを行う所もあり、佐渡おけさを鑑賞・体験できる機会が提供されています。旅行者向けに踊り体験教室が開かれることもあり、外国人観光客を含む多くの人が佐渡の伝統芸能に触れられる場が増えました。
新潟まつりでの交流
佐渡おけさは県外のイベントでも注目されています。新潟市で毎年夏に開催される「新潟まつり」では、民謡流し(民謡パレード)の恒例として佐渡おけさが披露されてきました。昭和33年から続くこの催しでは、佐渡市と新潟市が連携して踊り隊を派遣しており、地域間交流の一翼を担っています。注目された例として、2023年には4年ぶりに萬代橋上で佐渡おけさが踊られ、佐渡市長と新潟市長が飛び入り参加して盛り上げました。こうした取り組みは、佐渡おけさを通じて県内外の人々の心をつなぐ役割を果たしています。
保存・継承活動
佐渡おけさの伝統を守るため、住民や文化団体による保存・継承活動が活発化しています。地域の公民館や学校では民謡教室が開かれ、若い世代が佐渡おけさを学ぶ機会が増えています。また、佐渡観光協会などが主催するイベントでは踊りの披露やワークショップが行われ、島内外の人々に踊り方を指導しています。民謡保存会が結成されて地域の盆踊りや祭りで伝統を披露する例も多いです。これらの取り組みによって、佐渡おけさは次世代に受け継がれ、伝統としての価値が保たれています。
まとめ

佐渡おけさは九州由来のハイヤ節を源流とし、鉱山労働歌として佐渡の地で発展した郷土民謡です。その歴史は江戸時代から大正・昭和にかけて形作られ、現在では佐渡三大民謡の一つとして島民に親しまれています。歌詞に込められた佐渡の風土や人々の想い、十六足の踊りなどは、島の貴重な文化遺産です。現代では観光や祭りの場を通じて幅広く紹介され、地域活性化の要素ともなっています。今後も地元の保存会や学校教育などで継承活動が続けられ、佐渡おけさの魅力は未来へと受け継がれていくでしょう。佐渡島を訪れた際には、ぜひこの民謡と踊りの歴史に触れてみてください。
コメント